源頼朝(みなもとのよりとも)のヨットを使って実際に横断する企画である千葉市の募金集めボツになったようで・・・・。
それよりもテレビ局のコネで芸人使って実際の手漕ぎボート使って検証した方が事が早かったしれませんね・・・・。
さて、源頼朝の漂着地として安房勝山の竜島が有名だが、これは鎌倉時代の歴史書である吾妻鏡(あづまいかがみ)が元となっているそうだ。
ですが、頼朝の腹違いの弟である義経の日記というのが残されていて、これによると、よりともが漂着した場所は南房総の先端の館山の洲崎という小さな海岸だそうだ。
よって、現在も館山か勝山かは学者同士取っ組みあいだそうだ。
個人的には、歴史書の吾妻鏡は、書いた人の妄想かなり入ってしまっている指摘された通りだと思うし、館山の洲崎と記した源義経は頼朝から兄弟の縁切りされた人物であり、どちらの説も信用出来ない。
源頼朝が小田原の山のミカン畑で散々ひでぇ目にあわされて真鶴の港を脱出したのが9月だ。
この季節は黒潮の流れが速く、黒潮の支流が安房勝山だけなく、木更津や新舞子海岸まで到達していた事が、クロダイが釣れている事が現在もそれをものがたっている。
単純に物理的に考えてみると、館山の洲崎や安房勝山に漂着したというの間違いで、源頼朝が漂着した場所は新舞子海岸が妥当だと考えます。
新舞子海岸には戦争中の防空壕のような山を掘った穴があり、これをしととの岩やと言ってもおかしくなく、これこそが頼朝が身を潜めていた場所であると思われます。
したがって、個人的には新舞子海岸が源頼朝が漂着した場所だと断定いたしますが・・・。
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